2021.12.13

今日、好きなアイドルグループの、一人のメンバーが卒業した。ライブビューイングで卒業コンサートを観たんだけど、映画館の床が涙でびしょびしょになってた。うん、それは嘘だけど。自分はもう1曲目から泣いてて、それで隣の人もすんごい泣くから、何かつられ合いみたいになってた。

 

中高生の自分にとっても、それ以降の自分にとっても、つんくの楽曲はずっと味方でいてくれた。逆にそうじゃない人は、寂しい時や悲しい時、どうやって乗り越えてるんだろう。今日のコンサートではちょうど中高生の時期の曲をたくさん歌ってくれたから、何かそれだけで本当に泣けちゃった。嗚咽が止まらないくらいのボロ泣きでウケたね。

 

好きな詞なんていくらでもあるんだけど、「親切は素直に受けりゃ良い また今度は君が 違う誰かに 親切出来りゃ良い」で誰かに頼る自分を認めてあげたし、「才能なんてあると思うな じゃないと努力しないだろ」で自分を鼓舞してきたし、変な事に巻き込まれたら「あなたの事情は関係ないから 持ち込まないでください」で自分を励ました。あの時の自分は(多分今も)ひたすら否定され続けることに疲弊してて、でもつんくの楽曲は肯定する方法を教えてくれたから、何とかやってこれたと思ってる。もらった言葉は大事にしよう!

 

あと、全部つんくが彼女たちに曲をつくって、彼女たちが歌ってくれて、それで初めて自分の耳に届くんだなとも思った。好きなメンバーもいれば実は苦手なメンバーもいるけど、彼女たち全員がいて、初めてその時々の曲が生まれる。必要ないメンバーなんて一人もいないし、皆揃ってモーニング娘。なんだ。

 

そもそも、自分の中のメンバーに対する得意/不得意って、「選別の意識」から来てるなって。私はすぐメディア学もどきに結びつけてしまうんだけど、SNSの発達によって、例えばフォローする/フォローしないみたいな「選ぶ/選ばない」が可視化されたことで、「選ぶ感覚」が人々に染み付いてしまった気がする。選ぶ権利が自分にあると当然のように考えてしまっている自分が怖いな。ってことをコンサート中に考えてた。全然集中してないじゃ〜ん。

 

なには友あれ!小6から大学卒業まで10年間、ずっといてくれてありがとう。ずっと届けてくれてありがとう。バーイ!

2021.12.13

人生の大半の「好き」は苦しさを伴うものだったけど、推しに対する「好き」は、募るほど楽になる。もしかしてこれが「尊い」って感情なの?推しのように、軽やかに、正直に、しなやかに、健やかに、柔らかに生きたい。年下なのに尊敬できるところばっかりで、推しが練習場に通ってるの見たら、自分ももう少しだけ頑張ろうって思えるよ。誰かのことを知るのはこんなに楽しいんだって思い出させてくれてありがとう!

2021.12.11

私は周りからの見られ方を結構気にしてるらしい。最近やっと気付いた。誰にもどうとも思われたくないんだよな。あまのじゃくだから、相手にこういうイメージだよって言われたら、それと逆のことがしたくなっちゃう。よく分からない人であれば、よく分からないと思われて終われると思ってるからかもしれない。誰かに自分を分かられるのはすごく怖い。私は私を醜いと思ってるから。普段はかなり無理して、人間のフリしてるだけなので。今関わってる人たち全員に忘れられたら楽かも〜って気持ちとそんなの寂しいじゃんっていう当たり前の気持ち、両方ある。

 

最近はもう仕事でも人間のフリをするのをやめてしまった。笑顔を振りまいたら舐められるから、無理に笑わないようにしてる。こんな顔なせいだと思ってる。でも多分それだけじゃなくて、私の自信なさそうな話し方や佇まいもまた舐められる理由。本当は仕事ぶりで舐められないようにしたいのに。

 

人間関係リセットしたい。いつもこういう衝動に駆られてる。何で人間関係は持続的なものなんだろう〜。人との付き合いが続かない理由を聞かれたら、飽き性だからって適当に説明するんだけど、全然そんなことない気もする。もうちょっと深刻。私のやなとこ知られちゃったからもうやなんだよ。だから私が私でやなだけで、それって人に関係ないね。どこまでも勝手だね。

2021.11.27

なんかぼーっと生きてたいし、でもなんにも考えてない人にはなりたくないのに、どっちも許されないみたい。「チヤホヤされて、周りに助けられて生きてきたんだね。それが通用するのは〇〇歳までだよ!」みたいなこと、たまに言われるけど。そういう人さ、実際わたしの根性がひん曲がってるの知ったら「イメージと違うね、がっかりした」とか言うじゃんね。たまたまこの顔に生まれただけだし、たまたまこの身長に育っただけだし、たまたまこの話し方になっただけだし。自分が絶対に優位に立てそうな「ゆるふわ女子」に説教したいだけなんだろうな。それなら全然電柱にでも話してもらったら大丈夫ですよ。

 

そういう風に「キャラ化した社会」に、ずっと抗ってたい。だって誰かに好かれるためのキャラを演じて生きてたって、誰も楽になれないよ。キャラをつくってすぐはみんな楽なんだけどさ。「ありのままの自分」みたいなのもしんどいけどね。ちょうどいい感じでいこうよ〜ってことよ!←それ、お前が一番苦手なやつじゃん。

2021.11.21

12時半、代々木着。寿司にうどんと迷走した上で、結論スパイスカレー。爆弾みたいな面白さを持った、先輩の友人が来て、面白いことだけバーっと話して帰っていった。これは褒め言葉なんだけど、「愉快」って言葉が超似合う人だな。考えているようで考えてないようで考えている…みたいな、掴めない感じがちょっと羨ましくもある。

 

カレー実食後。先輩と、その恋人と、新宿御苑に。彼らと話すのは、とても楽しい。二人の性格や価値観の凸凹がうまくかみ合わさっているのが会話から分かって、勝手に心地よさを感じる。ナチュラルにかわいい恋人と、なんだか少し嬉しそうな先輩が毎度新鮮でおもしろい。だから二人といるとき、私はいつもに比べてあんまり話さない。

 

写真を見返したら、自分の顔が安心のあまり高野豆腐みたいになっていた(笑)安心というのは、「良いものに触れたな」「この二人の関係性、何の疑いもなく幸せのかたちの一つだな」という実感。ずっとそのままでいてほしいな!

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2021.3.1

去年の11月頃だったと思うけど、街中で突然震えがとまらなくて、動けなくなったときがあった。無理矢理体を動かして近くのカフェに入り、好きな本をぎゅっと握りながら息を整えた。情緒不安定すぎて笑っちゃうけど、今考えるとストレス溜め込んでたんだろうな。何者にもなれない自分について、いちばん考えてた時期だから。それでも今ここにいる自分はえらい!えらくないか。ふつうか。誰か助けてって思うけど、助けられても意味がないのは、そうだから。わたしの苦しみの根源はわたしにあるからね、わたしにしか助けられないんだよ。なので、人に「考え過ぎだよ」ってよく言われる理由はとても分かるけど、でもわたしは考え過ぎるくらい考えなきゃいけない人だ。バカだし。持ち味だし。人生だし。あのね、何者でもない自分を好きでいれる人のことが羨ましいと思う。妬ましく思う。

2021.2.28

『花束みたいな恋をした』の話。わたしは基本的に恋愛映画が好きで、それは恋愛が極めて人間的行為だから。2回も観に行ったよ。暇なんだね。あんまり映画詳しくないから、適当なこと言ってるかもね。あとネタバレがあるので、お気をつけて。

 

ふたりは好きなものについては話すのに、好きな理由は話さない。お互いの価値観を知る機会って意外と少なくなかったのかもしれない。それに輪をかけて、社会人になってからは一層お互いのことを知る時間が減っていくので見てられなかった。何も話さなくても伝わる関係もあるけど、言葉が必要なときってある。いや、言葉でなくてもいい。コミュニケーションを取るべきだった。でも一歩踏み込むのって勇気がいるよね。誰かと一緒にいる方法は、お互いを理解し合うことだけではないけど、ふたりにとってはそうじゃないから。

 

わたしはふたりの共犯関係を応援したかった。それが恋でなくても、ふたりでいられるなら良いんじゃないか。自分ならそう思ってしまう。だから、ファミレスで家族になろうと言った麦くんが好きだ。自分が変わったことによって絹ちゃんとの関係が変わってしまったことに対して目を背けていたのも、ずっと一緒に居たかったからなんだと思うと悲しい。もちろん疲れていたのもあるけど。一方で、ふたりの関係に終止符を打ち、いちばん綺麗なところで物語を終わりにできる絹ちゃんが好きだ。アホみたいなことを言えば、楽しい時間は永遠じゃないけど、だからこそ、その時間を大事にすべきなんだよね。お互いに傷つけ合うことはあっても、相手のことを大事にしようとしてるところが好きだな。ふたりとも幸せになってほしくて、だからファミレスの前で抱きしめ合うシーンで咽び泣いた。幸せになろう。